弁護士
下田 俊夫
遺言の偽造が問題となるケースでは、自筆証書遺言の場合には遺言者の自署性が争われ、公正証書遺言の場合には他人によるなりすましが問題になります。
遺言が偽造されたものか否かが争いとなる場合、当事者から私的筆跡鑑定が証拠として提出されることが少なくありません。また、裁判所に筆跡鑑定の申し出がなされることもあります。もっとも、筆跡鑑定は科学性、客観性が確立したものとは言い難く、どの程度信頼できるのか疑問がないとはいえないこと、筆跡対照は鑑定までしなくてもある程度可能であることなどから、裁判所は筆跡鑑定の採用に慎重であるとされています。
第1の公正証書遺言の作成から7年経過後に作成された第2の公正証書遺言が他人のなりすましによるとしてその効力が争われた事例で、当事者から遺言の署名は遺言者本人の署名ではないとされた複数の私的筆跡鑑定が提出されたものの、裁判所が子細に検討していずれも信用できず、採用できないとした事例について、紹介いたします。
遺言者は、平成20年に公正証書遺言を作成しましたが、7年経過後の平成27年に、多額の金融資産の受遺者を被告(遺言者の甥の妻)に変更することを内容とする公正証書遺言を作成しました。
原告(被告の夫とは別の甥)は、原告が実施した筆跡鑑定(計4通)において、平成27年遺言になされた遺言者の署名は、遺言者本人の署名ではないとされていることから、平成27年遺言は遺言者以外の者によって署名、作成されたものであり、無効であるから、平成20年遺言に従って遺言者の遺産を分配すべきであるとして、不当利得に基づき、被告に分配された遺産(金員)の返還を請求しました。
原告が提出した4通の私的筆跡鑑定について、以下のように子細に検討し、いずれも信用できず採用できないとの判断を示しました。そして、平成27年遺言が遺言者以外の者によって署名され、作成されたとはいえず、無効とは認められないとし、原告の請求を棄却しました。
ア 筆跡鑑定1
この鑑定書では、平成20年遺言の遺言者の署名と平成27年遺言の遺言者の署名を比較、検討し
ているが、7年が経過した後の作成されているところ、年齢の変化、体調や生活の変化などに
よって字体が変わる可能性があり、直ちに信用できない。
イ 筆跡鑑定2
この鑑定書では、平成27年遺言と近い時期の複数の遺言者の署名(介護計画書等の署名)を
比較検討しているが、複数の書面の各署名が似通っていると言い難く、その日の体調、姿勢、
筆記用具の種類などに影響された可能性が否定できず、直ちに採用できない。
ウ 筆跡鑑定3(大学名誉教授作成)
この鑑定書では、被告がデイサービス入所の重要事項説明書に遺言者の署名を代行したのに、
その7日後に遺言者が自発的に公証役場に出向いて平成27年遺言に自署することは不自然であ
ると断定してその不自然さが署名に表れると判断するが、署名代行の経緯等を検討していない
にもかかわらずそのように断定し判断するのは不適切といわざるを得ず、信用できない。
エ 筆跡鑑定4
この鑑定は、資料の抜粋文字だけでの検査であり完全ではないため、採用することができな
い。
遺言の筆跡が遺言者によるものか否かについて、私的に筆跡鑑定を依頼して、その結果を証拠として提出することがありますが、本件事案のように、たとえ複数の筆跡鑑定の結果内容が遺言者の署名ではないとされても、その判断が客観性・合理性に乏しいものである場合には、信用できず、採用されないことがあります。
筆跡鑑定を依頼する場合、遺言と筆跡対照文書の筆記条件については、可能な限り類似している方がよいとされています。具体的には、作成に用いた筆記具(筆ペン・サインペン・ボールペン・毛筆等)は同じか、縦書きか横書きか、楷書で丁寧に筆記されているか行書・草書・あるいは文字を続けて筆記されているか、遺言書作成時期と近接した時期に筆記された筆跡対照文書であるか等に留意して、筆跡対照文書を選別する必要があります。