弁護士
篠田 大地
遺言を行うには、他の法律行為と同様、意思能力(自己の行為の結果を弁識するに足りる精神的な能力)が必要とされており、意思能力なくして作成された遺言は無効となります。
遺言は、遺言者が高齢になって作成することが多いため、遺言作成時において、認知症その他の事情により意思能力の存在に疑問がある場合があります。
そして、訴訟においても、遺言者の意思能力の存在が争点となり、遺言の有効無効が争われるケースは多いように思います。
以下では、この点が争点になったケースで、数億円の全財産を顧問弁護士に遺贈したという珍しい裁判例である京都地裁平成25年4月11日判決をご紹介します。
なお、本事件の高裁判決については、以下をご覧ください。
被相続人は大正5年生まれの女性であり、平成15年12月11日に遺産をすべて顧問弁護士に遺贈するとの内容の自筆証書遺言を作成し、平成17年10月3日に当該遺言書を封して公証人に呈示し秘密証書遺言とする手続きも行いました。
被相続人は、会社の元経営者であり、死亡時において会社の株式と数億円の現金を有していました。また、遺言作成時において夫は既に死亡して子はおらず、多数の兄弟やその子が相続人でした(なお、裁判では被相続人が誰の子であるかも争われていますが、ここでは省略します)。
受遺者とされる弁護士は、昭和40年代に被相続人から法律問題の依頼を受けたことがあるほか、昭和60年、平成8年に各一度法律相談を受け、平成15年から被相続人が経営していた会社の顧問弁護士になりました。また、平成15年12月、被相続人の墓の問題を解決したということもありました。
被相続人は、平成13年に階段から転倒して病院に入院した後、平成14年1月以降、継続的に医師の診断を受けることとなり、日常生活において他人の介護・介助を必要とするようになりました。そして、上記のとおり平成15年12月11日に自筆証書遺言を作成しました。
一方で、被相続人は、平成16年4月に、自分が死んだら会社の株式を古参の社員であった親戚に譲渡し、経営を任せると伝えました。
その後、被相続人は平成16年11月から平成17年3月までの間病院に入院し、アルツハイマー病と診断されましたが、上記のとおり平成17年10月3日、秘密証書遺言を作成しました。
その後も被相続人は入退院を繰り返し、平成21年2月18日に死亡しました。
以上の事案において、判決は結論として、平成15年12月11日作成の自筆証書遺言、平成17年10月3日作成の秘密証書遺言のいずれの遺言も、当時被相続人に意思能力はなかったとして無効と判断しました。
平成17年10月3日時点で被相続人には、認知症の中核的な症状が現れていたとして、意思能力はないと判断しました。
更に、平成15年12月11日時点ですが、この当時の被相続人の病状は、初期認知症の段階でした。初期認知症の場合、それだけでは意思能力が否定されないのが通常ですが、裁判例では以下の2つの事情を重視して、平成15年12月11日時点においても被相続人に意思能力はないと判断しました。
1つ目は、遺言の結果の重大性・複雑性です。本件では被相続人は数億円という多額の財産を有しているとともに、その中には自身がかつて経営していた会社株式も含まれていました。そこで、裁判例は、数億円の財産を無償で移転させるという結果の重大性と、株式の譲渡に伴う会社への影響という複雑性を理由に、このような遺言を行う場合には、小学校高学年レベルの精神能力よりもう少し高い精神能力である「ごく常識的な判断力」が必要としました。
2つ目は、遺言の動機・理由の不可解さです。被相続人は、平成15年12月11日に株式を含めすべての財産を弁護士に遺贈するとの内容の自筆証書遺言を作成していますが、その4ヶ月後に親戚に会社の経営を任せる旨伝えています。親戚に会社の経営を任せるには、遺言は不都合となりますが、被相続人がこの点を全く心配していないことをとらえ、裁判例は、被相続人は遺言をした場合の利害得失を「ごく常識的な判断力」のレベルでさえ、全く理解していなかったと述べています。
遺言における意思能力の判断要素としては、主に①遺言時における遺言者の精神上の障害の存否、内容及び程度、②遺言内容それ自体の複雑性、③遺言の動機・理由、遺言者と相続人又は受遺者との人的関係・交際状況、遺言に至る経緯等があると言われ、①が最も基礎的かつ重要な事情とされています(東京地方裁判所民事部プラクティス委員会第二小委員会『遺言無効確認請求事件を巡る諸問題』判例タイムズ1380号10頁)。
本件の平成15年12月11日時点の被相続人の遺言能力の判断においては、①だけではなく、遺言の結果の重大性・複雑性という②の要素、そして、遺言の動機・理由の不可解さという③の要素が重視されていることが特色といえます。
弁護士が依頼者から多額の遺贈を受けるということ自体の問題はここでは措くとして、このような裁判例があることからすると、遺産額が多額の場合や、遺贈により多くの影響がある重要な相続財産がある場合には、遺言の作成にあたって遺言者により高度の精神能力が必要とされることがある点には留意しておくべきでしょう。